ナーナ−

 今、理事会から帰ってきた。
 いつもは、会場まで上司やら、近くに住む評議員の人やらを車で会場まで送っていくため、会が終わった懇親会でも一切アルコールは呑めないのだけど、今回は、会場が近くだったため、ぼくは職場から自転車で向かい、今日はここぞとばかりにアルコール(ビール→熱燗→焼酎)をたくさん呑んだ。もちろん、エライさんがいるから、気持ちのヨイ酔い方なんてできないのだけれど。でも、それなりには酔っ払えている。
 いつも理事会に出てぼくが思うのは、もう、ぼくにとってもう怒りすら湧いてこないほど、それは法人(施設)にとってのチェック機関、諮問機関としてさえ機能していない、「ナーナ−」で進む形骸化してるオトナの世界としての会なわけで、ただ、そういうオトナの世界について、若干ながらぼく自身のなかで「折り合い」を付けれるようになってきてはいて、それはぼくにとっても、いわゆる、なんという「(社会)正義」みたいなものにとってもさみしい現象ではあるものの、なんというのか、そのどうしても見すごせない違和感や諦めですらもあるオトナの世界の仕方に対する「蓋(フタ)の仕方」については、今回の理事会に出席してみて、ぼくのなかで少し変化していることに気づいた。
 それは、どうでもいいようなことでもあるのかもしれないけど、同じ自分自身の思いに「蓋をする」という行為について、例えば、折詰め弁当の蓋をするように、サッと蓋をするのではなく、酔っぱらってるから、うまく言えないけれど、「何段階かの手順を踏んで」蓋をしよう、したい、と思ったということで、それによって、消されつつある、そして、自分のなかのしなくてもいいけどあえてそれを選んだ苦しみといってしまいたいようなこだわりとでも言えるような思い(「オトナの世界、あるいは、社会ってのはこーゆーものだ」っていう諦めと疲れと自身への言い訳)への保持の仕方を守りたいと思った。
 ま、なにより、今日の理事会・評議員会が無事に終わって、何より。そのこと自体は、とてもホッとしているのだけど。