納得がいくことといかないこと
さっき、この2つ目の案件について、「なかなか大きな声では言えない」と書いたけれど、ぼくは、今でも、このことは、きちんとオープンにして何らかの議論をして、ある程度の「線引き」をしないと、児童福祉、障害児・者福祉についての支援方法が、ものすごく萎縮し、閉鎖的に、そして建前的なものになってしまうと、強く思う。
だから、このことは、いつか、きっちりと書ける日がくれば、書きたい。でも、今は、ぼくは組織に属する人間のため、書けない。
もちろん、ぼく(らの施設)が、まったくもって基本的に未熟であったことは認めたうえで。
それと、このことについて、ぼくが思うのは、1つ目の案件(施設整備)については、ぼくは、この職場で、経理も含めて、すべて事務的な作業はぼくひとりが携わっており、ぼくが担当者になることには、まぁ、ここまでひとりでやることはないだろうと思わなくもないけど、納得がいく。
けれど、2つ目の案件については、これが、例えば、経理とか事務面において、問題がある、不適切だという指摘を受けたのなら、ぼくが担当しなければいけないということは納得がいくけど、明らかに施設支援面の、実際に子どもたちへの支援に関わることであるのに、なぜここまでぼくがやらなくちゃいけないかということは、今でも納得がいかない。他に担当者がいるのに。
ただ、それについては、大変オコガマシイけれど、ぼくは、福祉に携わる人間の事務能力の低さ、そして、本来であるならば、福祉に携わる人間として、もっともスキルとして身に着けておかなければならない、対人能力の低さがあって、あえて、ぼくが担当することにした。
その「低さ」というのは、事務能力の面でいえば、人それぞれの能力というよりは、言語表現能力、または、その日々の磨き方の問題で(これは逆に言えば、ぼくの職場に限られたことであってほしいけれど)、子どもたちへの実際の指導・支援について、ぼくがとやかく言う立場ではないからここではあえて言わないことにしても、日々の「日誌」然り、「個別支援計画」の文言然り、読んでみると、そこにはほんとうに「稚拙」な日本語しか遣われておらず、それは決して専門用語さえ遣っていればいいということとはまったく別で、例え、いくら、実際の指導・支援が高いレベルのものだったとしても、それを誰かに伝えるときに用いる言語・表現が「稚拙」では、現状を知らない人がそれを読むと、ほんとうに低レベルのことしか実践していないような誤解を生んでしまう危険性がある。
ただ、何度も言うけれど、それは、個々人の責任とか能力の問題ということよりも、そういった表現方法について、福祉の現場(あるいは福祉系の大学・短大・専門学校などの教育機関)では、支援方法についての研修(教育)は山ほど行われているけれど、具体的な「作文」方法、どのように書けば・話せば相手に伝わるかを教える人、そしてそれを教えてもらう機会・時間が、極端に少ないのが現状だ。
だから、ぼくは、今回のことが、ものすごく大きなことに発展しそうな予感があり、これは、支援現場の職員に任せてられない、との危機感があって、行政とのやりとりに用いる資料から、正式な文書まで、すべてぼくが作成し、推敲し、毎晩夜中までかかって完成させたという経緯があった。
また、対人能力の面についても、一度、実際の支援の場にいる担当者(ぼくよりも2つ年上)といっしょに行政との協議を行った際、発言が真っ正直すぎて(それは美であるが、当時のぼくらにとって善ではなかった)、どんな発言がそこで求められているか、何がNGワードなのかをまったく把握できておらず、ほんとうにびっくりしたため、ぼくは、これについても、自分がやるしかない、という確信に至ったのだった。