もっとこわい/ずっとこわい

 週が明け、2日目。
 たんまりとたまった仕事。終わりはほど遠く。見えないほど。
 「そりゃそうだ」。1ヶ月もほとんど仕事してないんだもの。
 今日、上司から「お前、なんか(仕事に)戻ってきた感じするな」と言われた。ぼくも、そう思っていた、今日。
 でも、ほんとうのところ、仕事以外の時間は、まだまだ実務的な母の相続関連のことがぼくを取り巻いているし、この状況はまだまだ続きそうで、そして、その実務的・社会的なもの以前の、ぼく自身の母への「思慕」みたいなものは、つねに、ほんとうに、つねに、身体を覆う分厚い膜のように、まとわりつく夏の湿気のように、ここにある。
 かなしい、というときも、もちろんあるけれど、それは、母の「不在」を思ったりするときで、「不在」というよりも、もっと根源的な、そして当然な「喪(うしな)い」、そして、さっきの天涯孤独感、支えがなくなったような、足元がつねにぐらぐらするような落ち着かない感じがずっとある。
 でも、べつに、これが嫌だということもない。どちらかというと、このぐらぐらする感じがなくなる方がもっとこわい。日常に、母のいないことが日常になり、それが落ち着く、と思えるようになることの方が、ずっとこわい。

 今日、帰りに、Amazonで予約しておいた100s世界のフラワーロード」をローソンで受け取り、鶴見区の自宅に寄って、アルバムを聞きながら(13曲目の「まごころに」が今のところお気に入り)、留守中の郵便物などを整理して、それからこうしてPCに向かっていたら、もう夜が更けてきた。
 これから七夕の夜空の下、Cと母の遺影と母の多くの「遺品」と骨壷が待つ守口の母宅に戻る。

世界のフラワーロード(DVD付)

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