「なりゆき」

 以下、2008/12/4にちょっとだけ書いたこと。
 でも、UPしようとして憚れたこと。憚れるほどのことも書いてないのだけど。

 ぼくは、なんというのか、自分じしんが、ずいぶんいいかげんな人種だということについては敏感であったつもりだし、ありたいと願ってきたところではあるけれども、びっくりするなぁ! 他人(ひと)といっしょにセイカツし始めることによって、そして、その他人(ひと)というのが、自分じしんが選び/(一応)選ばれたという現実があるだけなおさら、それが、如実に露にされると、面の皮が踵(かかと)ほどあると自負しているぼくでさえ、なんとなく、臆する毎日がある。
 やはり、自分というものは、他人(ひと)、それも、自身が良かれと思って選んだ他人(ひと)あってのじぶんだということが言えるのだと思う。それをぼくは、ある意味、おとなたちの比喩だと思っていたけれど。
 そして、また逆に、自分の不幸(としたかったもの)を、ぼくが選べなかった生い立ちのせいだとしていたけれども、実は、ほとんどそうでもなくて、選べる/選べないは、そんなにたいした問題でもなく、ただ、それは責任の取り方というか、覚悟の仕方というだけの問題で、ぼくに対して与える喜びとかダメージといったものは、何に起因するものでもなく、「なりゆき」というものがほとんどを占めるんじゃないか、と、そう思えた、結婚生活、2ヶ月と少しの時間だった。
 でも、その「なりゆき」というのは、誤解されるとちょっと困るのだけど、とても良い意味でもある。
 ぼくは、そういう、なんというか、自分の生きる時間に起こる何がしかを、いつも、何かに起因するもの(おもに自分の行いの因果みたいなもの)というように考えてきたので(だから鬱気質なのだろうけど)、「なりゆき」だと考えると、とても気が楽でもある。でも、「なりゆき」というのと「運命」というものはまったく違う。

 なにか、言い争いのような、話し合いのようなものが行われながら毎日が進んでゆく。
 たいていは、ぼくが「折れる」。でも、それは、Cもそう思っているだろう。
 それでも、言い争いと話し合いの違いは、最後にはぼくが「折れる」か否かだと思う。Cはぜったいに折れない。
 ただ、ぼくは、いちいちのことで引っかかる。それは、わざとだとも言える。黙っていることの方が多い。ぼくにしては、そういう「自制」は珍しいのだけど。でも、それがセイカツというものだと思う。
 ぼくは、月・火・水曜日の食事(夕食)当番になった(木・金・土曜日がCの当番で、日曜日は、そのときそのときで考える、ということになった)。この数週間、いろんなものをつくった。Cは「おいしい」と言って食べてくれた。他人(ひと)に向けてつくる、という喜びは何にも変えがたいものがあるけれど、正直、献立を自分で決めるのがしんどい。ほんとに、職場で子どもたちが食べているそのままの夕食の献立を真似してつくろうかと思うことも何度かあった。

20:21 2009/01/02