「物語」足りえている

 去年(2008年)の末、いっせいに「電脳コイル」(原作・監督・脚本/磯光雄)をTSUTAYAの半額レンタルのときに借りてきて見ていたら、テレビが1台しかないから仕方がないのだけれど、C(妻)も、仕方なく第15話ぐらいからいっしょに見出して、結局、いちばんのおいしいところは、夜中3時ごろにいっしょに見たりしたのだった。泣きながら。それが2008年のことだった。
 でも、それは、ふたりともとくに感想は言い合わずに、翌朝仕事に行き(というか、ぼくが6時起きで、彼女は毎朝布団のなかなのだけど)、ただ、でも、同時に味わった喪失感というか、達成感というか、「電脳コイル」が与えた何かは、きっとぼく(ら)に何かを与えていたと思う。
「(人と人との)細い細いつながりは、いつも意識して守らなければすぐに断ち切られてしまうもの」というのが、おそらく、短絡的には「電脳コイル」が与えてくれた、それまでも、これまでも繰り返し大人たちから与えられるものとなんら変わりのない教訓だったにせよ、でも、やっぱりそこは趣向(手管)を変え、大人たちは、いろいろとやってくるもので、それなりに泣いたし、それなりにいろいろなことを思い知らされた。
 TSUTAYAのレジに返す手が、久しぶりに「電脳コイル」だけは、ちょっと憚られた。それは(ぼくらの)「物語」足りえていたからだ。
 「物語」足りえている、というのは、なんだろう?