全部消えてたと思ってたら

 上に「先日酔っぱらって書いたものが急にPCの調子がおかしくなって全部消えてしまったので、もう書く気が起きない」と書いたばかりだけど、今、PCのデスクトップを見たら隅の方に残ってるのに気付いた。少々乱暴なようだけど、そのまんま以下、貼付けてみる。

 今夜、わりと酔っぱらってる。
 そのうえでのエントリ。言い訳のようだけど。
 昨日、ここ何ヶ月かで念願の、是枝裕和監督「歩いても 歩いても」@梅田ガーデンシネマを観に行った。
 よかったのは、老若男女、すべての観客が、あの狭い、単館系映画館のなかにいたこと。それがぼくにとっては、唯一のあの映画の救いだった
 ぼくはこれまで、何があっても、どんな汚点があっても是枝裕和という人の表現について、擁護しようと思ってたし、それよりも「きちんとした観客」であろうと勤めてた。なぜなら、ぼくは、彼のこと、(これまでの)作品が大好きだったから。
 でも、だからこそ、言いたい、「歩いても 歩いても」は、とんでもない駄作だと。
 あのね、パンフレットも買わせてもらったけど、寄稿者に川本三郎を選ぶこと自体だめだ。
 彼が「良い」と言える作業は、小津や成瀬で、済んでいるのだから。失礼ながら、もうほとんど「これからの映画」みたいなことを考えてる人だとは思えない。川本三郎。いい文章を書く人だとは思うけど。当たり障りのない書評や映画票を大手の「新聞」に載せていってくれればいい人だ。
 それをきちんと引き継がないか引き継ぐかで、是枝裕和の評価は、きっと決まってる。彼に、パンフへの原稿に寄稿してもらおうとしてること自体、ぼくは、是枝裕和という人が、これまでやってきた劇映画やドキュメンタリーや、もしかするともっと大きな劇映画自体への投げかけ(新しい挑戦)みたいなことについての退行としか思えなかった。
 あのね、すごく残念なんだ、とにかく。期待し過ぎてたから。
 とにかくつまらないんだわ、「歩いても 歩いても」。

 っていうか、映画じゃないんだ、あれは。
 よく、撮影担当の山崎裕さんがよく納得してカメラ廻したな、っていうぐらい。映画じゃなく、あれは、とってもテレビなんだ、良い意味でも。そして、いろんな意味で、向田邦子ドラマを受け継いだ感じ。なに? オマージュ? とか思ったぐらい。
 ぼくの愛する是枝裕和さんの作品とは思えないぐらい(長回し、ほとんどナシだったし)。向田邦子とか、橋田壽賀子とか、山田太一とか、すべて受けたうえで、「家族」を描きたい、そして、それを乗り越えたいと思っていた(とぼくが勝手に思ってた)是枝裕和という映像作家は、そういうところで試行錯誤してる人だと思ってたのに、演出でいえば、おそらく久世光彦の馴れ合い(良いふうにいえば刺激し合う)関係を、ユーモアも含めて、ただ、受け継いだだけの、みすぼらしい「家庭劇」に思えてしかたがなかった。
 これまで、ぼくがいっしょに観ようと言って観た「花よりもなほ」以来、Cは是枝作品は2作目になるのだけど「あの、最後のシーンはぜったい要らないやんな」と観終わるなりぼくに言ったけど、ぼくに言わせれば、もちろんあの父母も亡くなって、子ども達も成長した最終カット以前にも、不必要なカットはたくさんあった。むしろ、ほとんど必要ないカットばかりだった。
 だから、ぼくの感想としては、映画を「お金を出して」「時間を裂いて」観に来た人の夢を壊すシーンばかりだというのが、映画「歩いても 歩いても」のすべてだと言ってもいい。つまり、考えさせてくれないのだ。すべて説明してしまっちゃてる。台詞で。映像で。こんな映画、ぼくははやくゴミになって灰になってしまった方がいいと思うぐらいの作品だった。まるで、テレビなんだ。びっくりするぐらい。
 でもね、ぼくは、ケツコン直前だから、思わず、いろいろなことを感じてしまった。あの、お盆に集まる「かぞく」という風景のなかに。そして、思わず、高橋和也演じる長女(YOU)の夫、おどけるしかない夫に自分を重ねてしまったりした。

 …ただ、こう書いたものの、母の「再発」という宣告があった今では、この作品を是枝さんが、数年前に亡くなったお母さまを思いながら撮ったということを前提にすると、なんだかもう切なくなってしまって何も言えなくなる。
 映画というのは、やっぱりある意味で極私的なものなんだと思う。

ドーナツ盤メモリー~いしだあゆみ

ドーナツ盤メモリー~いしだあゆみ



↑是枝さんのサイン?


↑同じ映画館で上映してた「ジャージの二人」ポスター(ピントぼけぼけ)