恥ずかしいけど、ぼくは真剣だと思う、けっこう
仕事後、ぽっつら、ぽっつら文校(大阪文学学校)へ。
もうひとりの人と、ぼくの作品についての合評。
初めてのクラスでの初めての合評してもらう作品(先日徹夜で書き上げた『給水塔』)なので、ちょっとキンチョーする。
ちょっと、今は、酔っぱらっっているので、きちんと書けないけれど、皆さんの言われていることはもっともだと思った。すごくありがたい指摘ばかりだった。要は、構成の問題と、エピソードが活きていないということとと、「書きすぎ」ということを指摘されたのだと思う。
明日以降、時間があれば、クラスのみなさんが指摘してくださったことをここで書きたいと思う。
もう、今日は、疲れた。
でも、「DAN」(文校近くのお好み焼き屋さん)で、チューターを中心に、終電間際までゆっくり話せたことは収穫だったと思う。
要は、作品云々とか、いうよりも、人云々なのだと思う。
今夜もちょっと思ったのは、やはり、ぼくは「手紙派」だということ。
多くの人に、普遍的なことを伝えたいとは、まったくもって思えない。そして、淋しいけれど、それが伝わるとも思っていない。
ぼくは、ぼくの伝えたい人に思いが伝われば(ぼくはそれがいちばん難しいことだと思っているけれど)、まずは、それで良いと思ってる。
でも、遅くに作品が届いたのに、みなさんきちんと読んでくれて、ほんとに嬉しかった。 概ね好評で、指摘された部分も「ごもっとも!」と納得できたし、やはし、文校(大阪文学学校)に再び通い始めてよかったと思う。
ぼくが目指すのは、本マニア、読書マニアに読んでもらう作品ではない。
マニア世界に生きるのが嫌で、トーキョーから出てきたのだし、日々汗水流して働いている人々、あるいは働けない人々にとって文学とは、小説とは何か? を課題にしていきたいというのが、ぼくのテーマだから。決して、マニアの道楽に加担する気はない。
生きることが読むことであり、読むことが生きることであり、読み、感じることによって、その日が、またはその翌日が、ちょっと彩られてあること、それに少し手助けをできれば、ということだけでしかない。また、ぼくにとってはそれプラス、書くことが加わるだけだ。
もちろん、それ以降の文学の、そして小説の付加価値についても、ぼくは、ある程度は理解しているつもり。それが、たとえば、古書店の仕事でもある。でも、それが小説の第一義では、決してない。物語のもつ力はそれに矮小化されてはならない、とぼくは、思う。
ケータイ小説によって、誰かが自殺を食い止められ、1日でも長く生きることができれば、それはそれで良い、ということ。ぼくが好む、例えば、島尾敏雄や阿部昭などを読み、その人の生きる日が1日短くなってしまええば、それはそれで良いこと、そういうことなんだと思う。