死がとても近かった

 未来の、それも何十年も先の未来(老後)の心配ができるようになったのは、ぼくの場合、ほんとにここ数年のことで、だから、やっと、去年の1月に資産形成も兼ねた生命保険に入った。でも、それ以後もずっと「未来なんてなるようにしかならない」ぐらいにしか、考えてはいない(今後、ケツコンしたり、子どもが産まれたりすると、そうもいかないのかもしれない。こわい)。
 そうなる前は、無職や、転職や、鬱や、毎日の仕事や、誰かのことを好きになったり(それがほとんと叶わずにいたり)で、てんてこまいの日々だった。国民健康保険も年金もずっと未納だった。奨学金も返納できなかった。ギリギリの生活だった。
 でも、そうやって考え出すと、ずいぶんむかし、何十年も先の未来のことばかり心配していた時期があった。それは、高校のときの、不登校の日々だ。16、7才のとき。今から16、7年前。あのときは「このまま、学校に行かなかったら、オワリだ」とか、「高校中退したら、それって学歴にしてみれば中卒で、働くところがなくて、親が死んだら、ぼくも死ぬ」とか、精神的にも錯乱していたときもあったから、死がとても近くだった。
 当時は、70才まで勤めていた仕事を辞めた祖母と毎日家のなかの別々の部屋でゴロゴロしていて、祖母が何かの度に「もう死ぬ、もう死ぬしかない」とか言っていて(それから16、7年後の今も祖母は生きている。認知症にはなってしまったけど、体は元気だ)、それも死が近くに思えた要因かもしれない。
 ただ、その当時、ぼくはぼくでとっても「切実」だった。不安定で、よるべのない毎日を過ごすだけで、朝、起きてもなんの予定もない食べて寝るだけの時間をやり過ごすことだけで「切実」だった。

 だから、もちろん「切実さ」の度合いなんてものは、他人と比べるものでもないし、同じ人間だって、年齢によって、生活している環境によって、何が切実で、何が切実でないか、どうあることが切実か切実でないかなんてことは、変化してゆくと思う。
 ただ、ぼくは、他人から見れば「何をぜいたくを言ってやがる」とか、「そんなくだらないことで」とか、言われたとしても、なんらかの「切実さ」を持っている人が(現実でもフィクションでも)好きだし、その点でいえば、この『結婚しなくていいですか。―すーちゃんの明日』の主人公のすーちゃんには、「切実さ」がない。
 そして、その「切実さ」のなさは、プロフィールにある「嫌いなことば、自分探し」とあるように、「嫌いなことば、自分探し」と淡々と言ってのけられる人に「切実さ」はぜったい生まれないと思う。いや、ぼくも、今では「自分探し」の功罪(とくに「罪」の方)について、やっと実感できてきたけど、「嫌いなことば、自分探し」と、決して言い切ることはできない。
 たぶん、これはタイプ(気質)の問題だし、なおかつ、「切実さ」を持たずに生きていたって全然構わないと思うし、むしろ、その方がしあわせなのかもしれない。でも、そう、ぼくは、個人的に、ただ切実さ」を持っている人が(現実でもフィクションでも)好きだ、というだけの話。
 ぼく的には、すーちゃんよりも、さわ子さんとまい子さんの「切実さ」を読む、という意味で、この本は、とても良かった。そして、この作品には、同作者のシリーズ第一弾『すーちゃん』もあるらしく、すーちゃんが、どれだけ「切実さ」のない女性なのかを確認するためにも(?)読んでみたいと思う。

すーちゃん

すーちゃん