維新派の切なさ
公演後、そんな催しがあるなんて全然知らなかったんだけど、席でアンケートを書いていたら、舞台に椅子とお水が用意され始め、毎日新聞の女性記者(お名前、失念)と維新派主宰の松本雄吉さん、そして、ゲストに「哲学者」で「文科系出身初めて大阪大学の学長になった」鷲田清一さんを迎え、「アフタートーク」が始まる
ぼくは、初めての生・松本雄吉に少々興奮しながら、ちょっとしゃべり過ぎ感のあった鷲田さんが言っていた「維新派の芝居を観た後は、感動するとともに、ちょっと『切なく』なって家への帰路をとぼとぼ帰ることになる」ということばにも納得しつつ、約30分ほどだったかの「アフタートーク」を興味深く聴けた。
その「切ない」という思いは、ぼくは、今回の公演を観ながら感じだんだけど、もし舞台全体の動きを「経済」とするなら、役者ひとりひとりから見えてくるものは、各家庭の「家計簿」みたいなものだ(よくわからない例えでごめんなさい)、つまりは、役者たちが白塗りをしてほとんど表情が見えないなかで、同じような動きや声などのパフォーマンスを繰り返す維新派の芝居は、言い換えれば「没個性」の芝居とも言えるわけで、鷲田さんのことばでいうと「結局、わたしたちは、自由と言われる社会のなかでやりたいことをやっているように思い込んでいるだけで、実は、それぞれの人がやっていることにはそれほど差はなく、『これは自分だけのものだ』というものなんてないし、すべてやらされているだけに思えてくる」というような意味。高度資本主義社会…。
たしかに、ぼくも役者=「家計簿」だと思ったように、維新派の芝居を観た後は、その種の「切ない」感じを残す作用はあると思う。でも、ぼくは、維新派の芝居は、それよりも身体性の取り戻しをうながしたり、そこから発せられる声(「喋らない台詞」「歌わない音楽」)、そして動き(「踊らない踊り」)は、広い意味で、ぼくたち人間という生物が原始の時代からもっていた「ことば」を思い起こさせてくれるし、嘘ばっかりのことばが氾濫する現代において、ぼく自身の「ことば」を見つけたいと妙なこだわりをずっと持ち続けているぼくにとっては、毎回、ものすごく有益、というか、刺激的な時間になっている。
あと、その「アフタートーク」でおもしろかったのは、維新派主宰の松本雄吉さんが、たびたび発する「ぶっ殺す」ということばで、例えば「演劇とか芝居とかダンスが好きな人は、他人(ひと)がものすごい好きで、いっしょに何かしてみたいと欲するときと、他人(ひと)がものすごく憎くなったり、面倒になったり、人を『ぶっ殺したい』と思うほど遠ざけたいと思うときの極端な差が激しい人種なんじゃないか」とか言っていて、その「演劇とか芝居とかダンスが好きな人」のカテゴライズもおもしろいと思ったけど、「ぶっ殺す」をこんなに連発する人もいないな、とそのことがとても激しい感じでよかった。
