張り子事件
本書を第二章まで読んで印象深かったのは、まず、優等生だった娘が突然不登校になり、さらに援助交際まで行っていて途方にくれていた相談者、Aさんの話。
この場面にくるまで、いろいろとプロセスが本書では書かれているのだが、それは省くとして、著者のところに娘のことで相談に来ていたAさんに、突然高校の同窓会の案内が届く。娘のことで心が重いAさんはそれどころではないのだが、「なぜか出席してみたくてたまらなくなったんです」と戸惑いつつ言い、その理由がAさんが高校1年の秋の運動会前の出来事の記憶が気にかかっているため、と言う。
それは、こういう記憶だった。
Aさんの高校では体育祭に、高さが五メートルもあるような大きな張り子をクラス毎に作るのが古くから続く伝統だった。その日は翌日の体育祭の準備のため、クラス全員が残って校庭で張り子の仕上げをしていた。横になっていた張り子をいよいよ立てるという、作業の最終段階に入っていた時だった。やっとのことで立ち上がった張り子にみんなの歓声が上がった瞬間、突風が吹いた。そして彼女のクラスの張り子は勢いよく空に向かって吹き上げられてしまった。風にあおられて舞い上がった張り子はとなりのクラスの張り子にぶつかった。するとそこにまた強い風が吹き、二つの張り子は同時に宙を舞った。こうなるともう連鎖反応のように次々とすべてのクラスの張り子が風に飛ばされ、どの張り子もバラバラに崩壊してしまったのだ。さっきまで運動場に林立していた各クラスの張り子が、一陣の風のものちすべてバラバラになってしまった。一瞬のその出来事に声を失って唖然としていたクラスメイトの表情。女生徒の悲鳴。そして飛んできた張り子にぶつかって怪我をした男の子の腕の傷。とても夕焼けがきれいだったことなど、どのシーンもまるで映像が目の前に浮かぶようにクリアだった。そして、張り子の崩壊にショックを受けて涙を流しているクラスメイトと抱き合いながらも、どこか醒めた目でこの状況をみていたその時の自分のことが実感をもって思い出されたのだった。
「ダメになるのなら、もっと粉々に、もっとバラバラになってしまえ! どこか遠くに飛ばされてしまえ! という凶暴な気持ちをその時の自分は持っていたように思います。こんな過激なことを思っていたなんて、今まで忘れていました」とAさんは語った。
ただ、これは、数ページ読んでいくと判明するのだけど、同窓会に参加したAさんは、結局、体育祭は張り子なしで行われたのか、そのあたりの記憶がないまま、この「張り子事件」のことを話題にしてみたところ、周囲から返ってきたのは意外な返事だった。
「風で張り子が倒されたけど、ただ倒れただけだったのでみんなでそれを立て直して、無事に体育祭に間に合った」と。なおかつ、同窓生によると「張り子の崩壊にショックを受けて涙を流しているクラスメイトと抱き合いながらも、どこか醒めた目でこの状況をみていた」はずのAさん自身が、ショックを受けてしばらく泣き止まなかったとも語られたのだという。Aさんは、もちろんそのときとても戸惑った。
著者は、このAさんの経験を「Aさんのその思春期の記憶が事実なのかそうでないのかということは、この場合、それほど大きな問題ではない」といい、思春期の内的体験の言語化の難しさについて論じ始め、まさに、このAさんの「張り子事件」の記憶は、思春期の内的体験そのものだったとし、思春期の混乱の様子、子どもとして完成していた自分が崩壊するイメージ、そして、一度バラバラに崩壊しなくては次に行けないことを自分でも自覚していることなどを表しているという。そして、興味深いのは、Aさんのこの体験が「同窓会という思春期の追体験状況のなかで強く印象づけられ」たことで、「やはり思春期体験は異界体験なのだ」と。