余裕とは
1995年から2004年ごろまでの約10年間、ちょうど、この作品が描かれてから今に至るまでの中間期、あるいはその「余裕」がなくなる過渡期、その東京にぼくは生活していたことになる。そして、確かにある種の「余裕」が損なわれていく実感が、ぼく自身の生活にも表れていたし、でも、それは東京・トーキョーに限ったことナンだろうか、とは、今、大阪に住んでいてそう思わなくもないけれど、この『東方見聞録』に表れている岡崎京子は、線もコマ割りもとても正当派だし、楽しそうでいい。「切迫感」が増した岡崎作品が好きな人にとっては少し物足りないかもしれないけれど。
ただ、その「余裕」ってなんなのだろう? とは思う。
「余裕」があることに越したことはない、と誰もが思うだろうし、ぼくも思う。金銭的余裕、時間的余裕、精神的余裕。でも、それがすべて「まやかし」であったことが、この20年かけて、どんどんわかった。そして、20年後、ある人はまた別の「まやかし」を使って余裕を得ようとしているし、またある人は<ほんとう>の「余裕」みたいなものを求めて、スロウな生活を送り出しているし、メディアもそれを奨励しているように見える。「余裕」っていうのは、あるものじゃなくて、つくり出す/つくり出されるものなんだな、たぶん。「そこそこの余裕のある生活」ってよく言うけど。