「公平な」見方

 ただし、今回、ぼくが上記のようにこの映画に感動できたのは、ここのところずっと仕事で頭を抱えている「受け容れがたき存在」(=「ラオウ」。人物そのもの、あるいはその手法)が大きく影響していると思われる。そして、それは作品に対する「公平な」見方を見失っていることになるかもしれない。ただ、ぼくが思うのは、映画であれ、文学であれ、音楽であれ、絵画であれ、演劇であれ、なんであっても、そんな「公平な」見方なんてくそくらえ! ということであって、人それぞれ、その人のなかでもその作品と接する時期、空間によってそれぞれ作品の見方、感じ方はあっていいし、本来、物語のあり方というものはそうでしかあり得ないと思っているから、それはそれで開き直ってしまえるんだけど。
 その点で言うと、「ゲドを読む。」のなかで、『ゲド戦記』シリーズの訳者である清水真砂子さんが、この映画についてどう思うか? との質問に以下のように答えている(「雄々しい少女、アーシュラ・K・ル=グウィンとわたし」(別冊宝島『僕たちの好きなゲド戦記』初出に加筆修正))。

 こういう問題を考えるときに、正しいか正しくないかというのはおよそナンセンスであって、文学に正しいか正しくないかという議論はあまり意味がないという気がします。わたしたちが何かを読むときって、こちらの器に応じてしか受け取れないから、全部をそっくりそのまま受け取れといっても無理なんです。誰もが少しずつ誤解しながら受け取っている。でも、それを間違いということはできない。
 わたしは書き手ではないので、これは推測になりますけれど、作者が自分では気づいていない豊かさを読者が発見していくこともあると思います。

ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)

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