(5/13更新)

 4/30(月・祝)。
 29日の23時すぎ、母、車にて来宅。
 母はすぐ出発しようとしたが、もう長い間来られないぼくの部屋へ通す。まだ「汚部屋」だけれど。
 お茶を飲みながら、その日の昼、母の友人たちが「定年祝い」に集まってくれたこと(だから、その人たちにはまだ病気のことは言わなかったらしい)、そして夜は、定年した先月まで、ともに働いていた職場の人が集まったくれたことなどを聞く。
 「今度、おかあさんが退院するまでには部屋をぜったい片づけておくから」と母に告げる。
 「楽しみにしてる」と母。

 30日の0時すぎ、串本に向けて出発。
 ぼくの部屋→(近畿道・阪和道)→紀ノ川SA(休憩)【ここまで母が運転】→(湯浅御坊道路)→みなべIC、そして後はひたすらR42号線を南下。途中のファミレス(ガスト)で休憩&仮眠(AM3時ごろ出発)。なんとか串本の日の出の時間(5:12)に間に合わそうと、海沿い、そして山沿いのクネクネした道をぼくが飛ばしていると、途中で母は「気分悪いから、スピードを落として。それにタイヤからの振動がお腹に響くねん」と言った。強い痛み止め&貧血止めの薬を服用しているためだと思われた。これまで車に乗っててもぜったいそんなこと言ったことなかったのに。
 時速40km〜50kmで車を走らせる。母はぼくのとなりでスヤスヤと眠り始める。そして、空はだんだんと白み始めていった。

 そして、5:30すぎ、串本の港に着。母の大切な思い出の場所。どんな思い出なのかは知らない。
 波止場に腰を下ろしてふたりしてボンヤリ日が昇るのを眺めた。それから母は、波止場に並ぶ釣り人たちの光景を眺めながら歩き始めた。母をひとりにしてあげたかったので、ぼくはそのまま長い間朝日を眺めていた。

 7時前になって、母が「ちょっと眠りたい」と言う。ぼくは、ここまで来たのだから本州最南端の「潮岬にも行ってみたい」と言い、5、6分車を走らせ、潮岬の駐車場に車を停めて、ぼくは周辺を散策し、母はずっと車の中で眠っていた。
 潮岬のベンチで、ぼくは何枚かハガキを書いた。

 9時前、潮岬を出発。帰りは湯浅御坊道路の吉備湯浅PAまで母が運転。自分で運転した方が、ブレーキをかけたり、カーブを曲がったりするタイミングなどがわかって、しんどくないようだった。途中、とれとれ市場南紀白浜に寄り、ぼくは朝食。母は、コーヒーだけ飲んだ。それから、吉備湯浅PAで、母は地元名産の牛乳、ぼくはソフトクリームを食べた。
 ぼくが運転を変わってからは、母は後部座席に横になって眠っていた。
 途中、休みながら15時ごろ、大阪着。スーパーに寄って帰って、16時ごろ母宅着。その後、ぼくも疲れたので、18時すぎまでちょっと眠る。

 19時ごろ、母の友人であるTさん、来宅。
 Tさんの職場で末期がんだと診断された人が受けたら、進行を抑えられたという「テルミー療法」をTさんがやってくれる。ぼくは、その間、 ボブ・グリーン『ABCDJ―とびきりの友情について語ろう』を読む。ベタツキのあるボブ・グリーンの文章は、そのときのぼくにしっくりと入ってきた。
 20時ごろ、母の恋人であるSさん、来宅。
 ぼくは、正直、ちょっと複雑な気分でもあったが、ずっとSさんのことは母から聞いていたし、こういう状況下でもあるので、すんなりと対面。
 そして4人でお茶。Tさんは母の昔の職場の同僚、Sさんは母の先月までの職場の同僚ということで、母の昔の話をたっぷり聞いた。そして、母らしいエピソードに、4人で大笑い。大雨の日に、状況を見に来てくれたものすごく偉い上司をガスメーターを集計する人と間違えて追い返してしまった母とか、そういう話題には事欠かない母。
 22時ごろ、Tさんが帰ると言ったので、ぼくが駅まで送っていく。母とSさんでいろんな話もあるだろうと思ったから。
 23時ごろ、母宅に戻ってきたら、母の目も、Sさんの目も赤く、その後、Sさんも帰った。

 それから、母とぼくの入院前最後の夜、最後の対話。
 ぼくは、これまでそんな泣き方をした覚えがないぐらい、嗚咽というのか、お腹の底から出てくるようなかなしみと、声で泣いた。
 3時ごろ就寝。
 その夜は、疲れていたためか、ぼくもすぐに眠れたし、翌朝、母に聞いてみると、母もすぐに寝てしまったとのことだった。

ABCDJ―とびきりの友情について語ろう

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